書誌種別 |
図書 |
タイトル |
人間形成における「如来蔵思想」の教育的道徳的意義 |
タイトルヨミ |
ニンゲン ケイセイ ニ オケル ニョライゾウ シソウ ノ キョウイクテキ ドウトクテキ イギ |
人名 |
岩瀬 真寿美/著
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人名ヨミ |
イワセ マスミ |
出版者・発行者 |
国書刊行会
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出版者・発行者等ヨミ |
コクショ カンコウカイ |
出版地・発行地 |
東京 |
出版・発行年月 |
2011.8 |
ページ数または枚数・巻数 |
266p |
大きさ |
22cm |
価格 |
¥6200 |
ISBN |
978-4-336-05414-2 |
ISBN |
4-336-05414-2 |
注記 |
布装 |
注記 |
文献:p250〜266 |
分類記号 |
371.6
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件名 |
宗教教育
/
仏教
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内容紹介 |
大乗仏教において人間形成はどのように捉えられるのか。家庭教育や道徳教育などにおけるさまざまな課題を検討するにあたって、大乗仏教思想には教育的道徳的意義があるのではないかという仮説のもとに、その意義を解明する。 |
著者紹介 |
1982年愛知県生まれ。名古屋大学大学院教育発達科学研究科博士課程後期課程修了。博士(教育学)。名古屋産業大学環境情報ビジネス学部講師。 |
言語区分 |
JPN |
タイトルコード |
1009811462834 |
目次 |
序章 |
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第一節 本研究の目的/第二節 如来蔵思想に関する先行研究/第三節 インド学仏教学研究からみた大乗仏教の変遷/第四節 本研究の課題と構成 |
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第一部 「覚」の可能性 |
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第一章 わが国の人間形成観-鈴木大拙、西谷啓治、久松真一による「覚」の人間像の再検討 |
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第一節 諸苦を環境に帰属させるか自己に帰属させるか/第二節 鈴木、西谷、久松による苦の人間像/第三節 鈴木、西谷、久松による覚の人間像 |
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第二章 唯識説における自業自得の人間観と自己変革の人間像 |
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第一節 自業自得を根拠づける唯識説の存在論/第二節 唯識説における苦の人間存在と覚への変革可能性/第三節 譬喩にみる唯識説の人間観/第四節 自業自得の考え方から自己省察と自己変革の議論へ |
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第三章 『如来蔵経』における「苦」と「覚」 |
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第一節 大乗仏教における「現にある人間」と「あるべき人間」/第二節 「現にある人間」と「あるべき人間」との関係性/第三節 自身や他人の中にある「あるべき人間」の可能性に対する信 |
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第二部 「覚」と自己形成 |
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第一章 『華厳経』における善財童子にみる自己形成観 |
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第一節 『華厳経』における自然観/第二節 『華厳経』における自己形成観-善財童子の修道をそのモデルとして/第三節 事事無礙法界の自然観に裏づけられた善財童子の自己形成 |
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第二章 「慈悲」からみた自己形成-受けとる慈悲から与える慈悲へ |
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第一節 久松による人間の四分類/第二節 共同体における慈悲・愛憎の次元を超える慈悲/第三節 『法華経』にみる覚の人間 |
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第三章 禅仏教の「十牛図」にみる自己形成観-上田閑照による「十牛図」解釈の再検討 |
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第一節 禅仏教の人間形成観を示す「十牛図」/第二節 第一「尋牛」乃至第七「忘牛存人」の漸修的自己形成観/第三節 第八「人牛倶忘」・第九「返本還源」・第十「入廛垂手」の相即相入的自己形成観/第四節 第八「人牛倶忘」が示す平等と第九「返本還源」が示す差別 |
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第三部 「覚」の諸相 |
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第一章 唯識説における三性三無性説 |
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第一節 唯識説の大乗仏教史的位置/第二節 遍計所執性・依他起性・円成実性の関連性/第三節 『摂大乗論』における三性三無性説 |
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第二章 仏教における「平等」と「差別」-仏教における女性差別の問題を中心に |
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第一節 「真如法身」としての平等と「変化別異」としての差別/第二節 空と如来蔵と平等の関係性/第三節 フェミニストたちによる仏教への批判の妥当性/第四節 男性原理と女性原理の統合 |
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第三章 『瑜伽師地論』における「自利・利他」についての一考察 |
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第一節 「利己」対「利他」/「自利・利他」/第二節 『瑜伽師地論』における「利他の混じらぬ自利」と「自利の混じらぬ利他」/第三節 「人格の完成」の過程としての「自利・利他」 |
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第四章 『法華経』の譬喩をつかう道徳授業の可能性 |
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第一節 如来蔵思想の道徳的意義/第二節 『勝鬘経』にみる如来蔵思想の特徴/第三節 『法華経』の譬喩をつかう道徳授業 |
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終章 |
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第一節 如来蔵思想とその教育的道徳的意義/第二節 如来蔵思想からみた「仏教的教育人間学」の可能性 |