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資料の状態
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| No. |
資料番号 |
資料種別 |
請求記号 |
配架場所 |
状態 |
貸出
|
| 1 |
0017138157 | こどもの本 | C114/カネ26/ | 1F児研室 | 館内利用 |
× |
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書誌情報サマリ
| タイトル |
「わたし」が死ぬということの哲学
|
| 人名 |
兼本 浩祐/著
|
| 人名ヨミ |
カネモト コウスケ |
| 出版者・発行者 |
筑摩書房
|
| 出版年月 |
2026.4 |
書誌詳細
この資料の書誌詳細情報です。
| 書誌種別 |
児童図書 |
| タイトル |
「わたし」が死ぬということの哲学 |
| シリーズ名 |
ちくまプリマー新書 |
| シリーズ番号 |
520 |
| タイトルヨミ |
ワタシ ガ シヌ ト イウ コト ノ テツガク |
| シリーズ名ヨミ |
チクマ プリマー シンショ |
| シリーズ番号ヨミ |
520 |
| 人名 |
兼本 浩祐/著
|
| 人名ヨミ |
カネモト コウスケ |
| 出版者・発行者 |
筑摩書房
|
| 出版者・発行者等ヨミ |
チクマ ショボウ |
| 出版地・発行地 |
東京 |
| 出版・発行年月 |
2026.4 |
| ページ数または枚数・巻数 |
255p |
| 大きさ |
18cm |
| 価格 |
¥940 |
| ISBN |
978-4-480-68552-0 |
| ISBN |
4-480-68552-0 |
| 注記 |
文献:p250〜255 |
| 分類記号 |
114.2
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| 件名 |
生と死
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| 内容紹介 |
いったい「死」とはどのような事態なのだろうか。今ここにいて物事を感じている「自分」とは何か。生物学、意識科学、哲学を横断し、根源的な問いに迫る。 |
| 著者紹介 |
京都大学医学部卒業。すずかけクリニック医師。中部PNESリサーチセンター所長。愛知医科大学名誉教授。著書に「普通という異常」「脳を通って私が生まれるとき」など。 |
| 言語区分 |
JPN |
| タイトルコード |
1009812919977 |
| 目次 |
はじめに |
|
第一章 体が死ぬということ |
|
1 生物の「死」の科学/細胞の死に方/体と同じように細胞は死ぬ運命にあるのか/有用な「能力」として進化の過程で獲得された「死」/不死化する細胞、寿命を規定する細胞/「死」というたがが外れると細胞は癌化する/樹木はなぜ、ときに桁外れに長寿なのか/2 体のあいまいな境界/ひとつの体が複数化する植物/複数の個体が融合する粘菌/木の身体の大部分は死んでいる/3 関係の連なりとしての体/多細胞生物の仕切りは細胞膜ではない/眼鏡や服は体の一部だろうか/共生する生き物同士は体の外か内か/「わたしと小鳥とすずと」とモナド論/働きかけによって因果関係が修正される存在/体の連続性は「関係」の連続性にある/巻き戻しがきかないほど乱雑になること/熱的死という終わりとその執行猶予としての体/散逸構造としての生命/刻々と再編される身体の境界 |
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第二章 こころが死ぬということ |
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1 動物意識-起きていること/昏睡という状態/動物意識の解剖学/ばらばらに眠り始める脳/2 他動詞的意識-体験し、知覚する/意識を意識する「状態意識」/デカルトの「意識」は高階の思考か/意識があると外から観察して確かめるには/「意識」の歴史/表象とは「録画の再生」か「レシピをもとにした料理」か/注意したから感じるのか、感じたから注意が向くのか/クォリアとは何か/知覚直観をめぐるフッサールとハイデガーの論争/教師のいない学習モデルは可能か/個々の主観を橋渡しするコードとしての「言葉」/他動詞的意識に対応する脳の機能/意識を台風の目のようなものと考える/意識の原型とは何か/3 通時的意識-一続きの「自分」/体を取り換えた王子と靴磨きはどちらが「王子」なのか/機能が変わらないならそれは「同じ」なのか/脳をふたりに移植したらどうなるのか/意識が途切れるだけでは「自分」は途切れない |
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第三章 自分が死ぬということ |
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1 計ることのできる「快」と「死」/魂は存在しない/ばらばらの「私」を繫げる「形而上学的接着剤」/死の価値を値踏みするための幸せの総量/不死は死ぬほど退屈である/死ぬのはなぜ悪いことだと人は考えるのか/2 何が「私」を一続きにするのか/空間芋虫としての身体/時間芋虫としての人格/「私」を追い求めた20世紀/ベルクソンが考える「私」の連続性/柴崎友香さんの小説におけるばらばらの「私」/「ちゃんと」まとまること、小さな「大きな物語」/3 社会的死-ホモ・サケルであること/剝き出しの生/三種類の「私」の同一性/サルトルが考える「存在」/他者が「私」の連続性を担保する/「私」は「私たち」から生ずるのか/「われ」に先行するのは「われわれ」か「おおやけ」か/剝き出しの生は人間の根拠たりうるのか/物語と「私」であること/いじめは人をホモ・サケルにする |
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第四章 死への処方箋 |
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1 尊厳療法と辞世の句/尊厳療法とはどのようなものか/「私」という物語のエンディングとしての辞世の句/死ぬ人が死を物語として語る/2 やってくるものと正岡子規/想像の外側からやってくる/森羅万象の細部に分け入る「写生」/「やってくるもの」と出会い続けること/3 平気で死ぬことと平気で生きること/すでにある状態でその目的が実現されている/きらきらと輝いて見える |
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おわりに |
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文献一覧 |
| 内容紹介(児童書) |
生物の体はどこまでが生きていてどこまでが死んでいるか。今、何を感じ、考え、認識しているかという経験としての意識が途切れることは「自分」が途切れることなのか。なぜ社会からハブられるだけで人は死ぬのか。今ここにいて物事を感じている「自分」とは何か。生物学、意識科学、哲学を横断し、根源的な問いに迫る。 |
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